電柱の足元に咲く小さな花の歴史を君はまだ知らない

私も知らない。 日々思うことや思い付き短編小説風コラム風な記事を不定期で投稿します。 基本的にすごくしょうもない内容です。 知的要素ゼロがお好きな方向けです。

痩せたい願望と食事の因果関係に関する考察

痩せたい。

それは一般的に痩せていると思われる人でも抱く願望の一つだ。

一般的に痩せていると思われる人ですら痩せたいと願っているということは、一般的に痩せていないと思われる人のそれはより強力な願望となる。

私も一般的に痩せていないと思われる人の内の一人なので、痛いほどよくわかる。

「またまたぁ。そう思っているのは自分だけで、実際は太ってないんじゃないの?」

と思われるかもしれないが、身長と体重の比率で算出するBMI指数的にも、決して誇張表現ではないことを主張したい。数値に勝る事実は無いのだ。

 

さて、痩せるためには何が必要なのだろうか。

よく挙げられるのはやはり「運動」だ。筋力の衰えは脂肪に繋がってしまう。

運動無くしてダイエットは語れないだろう。

 

しかしそんなことはどうでもよい。

私が今ここで大声で主張したいことは運動のことではない。

人が生きる上で避けては通れないもの。そう、「食事」のことだ。

 

何故、美味いものは太るのか。

 

糖質制限だのカロリー制限だの、世の中にはダイエットの手法として食事に関する方法が散見される。

食事の節制をすることで、体重管理をするというのは確かに理に適っている。

しかし、私は主張したい。

 

そんなの楽しくない。

 

わかっている。わかっているのだ。

痩せたいと願うだけでは痩せないことを。

何かを手に入れるには、何かを犠牲にしなくてはいけないことを。

食べたきゃ動け、というのもわかっている。

ただ、私が言いたいことはそういう分かりきった話ではない。

 

何故人間は食べれる食材が多くて、そして太るのか

という点に着目したい。

 

自然界の動物は、普通に生きていたら太ることはない。

何故なら、私の独自の推測によると彼らは「一定の食物」しか口にしないからだ。

例えばライオン。草食動物を襲うことで運動をし、肉しか食べない。

例えばウサギ。草などの野菜しか食べない。

例えば魚。基本プランクトン。

そして人間。肉、魚、野菜、果物、米、小麦、砂糖、油、塩・・・

明らかに口にする食材が多すぎる。調理をするなどしてバリエーションが富んでいるのも特徴だ。

 

人間が進化の途中で道具を作りだし、火を扱い始めた段階で、既に食のバリエーションは広がっていたはずだ。

生肉を食らって腹を壊すこともなくなり、魚を生で食べる良い方法を編み出し、味気のない野菜を引き立てる調味料なんていう小技も生まれた。

これ故に、人間はとても贅沢な生き物と言われている。

 

犬も人の手で育てる際、ドッグフードなど自然界にはない食物を与え、散歩もせず家でだらだらする生活をさせてしまうと、贅沢を覚えた犬はどんどんと太っていく。

人間はこれを自ら望んで繰り返していく。

 

そして容姿を気にするのも人間独自の感情だ。

単純に痩せた方が行動しやすい、健康によいというだけであれば、世の多くの人は痩せたいなんて思う必要はないだろう。

美味しいものを食べたい。そして見た目もスッキリしてモテたい。

人間ならではの食に関する貪欲さと子孫繁栄という絶対的本能を混ぜた結果、「痩せたい」という独特の願望が蔓延ってしまったのだ。

 

話を少し戻すが、人間が美味しいと感じるもの。その多くが「体に悪いもの」だ。

カップラーメンとか最高にうまい。しかし最高に体に悪い。そういうことだ。

某CMでも謳われている通り、美味しいものは脂肪と糖で出来ているという事実。

これに強く疑問を抱いている。

 

単純に肉を食べることを思い出してほしい。

あなたは赤身のステーキ肉を、ただ焼いただけで食べれるか?

答えはノーのはずだ。

何故なら、普段美味しいと思ってむさぼっているのはただの肉ではない。

時には塩のみ、時には焼肉のたれ、時にはおろしポン酢。

そう、肉を食らうだけでは人間は「美味しさ」を感じない。

そこに何かしらの「うま味成分」が加わっているのだ。

 

もちろん、少量であれば太る原因にはならないだろう。

しかし美味しいものは美味しい。毎日食べたい。そう思うのが人間だろう。

「昨日は焼肉食べすぎちゃったから、今日はサラダだけにしよう。」

世の人間全てがそうやって食に対しての修行僧並みのストイックさをもってカロリーコントロールが出来るのであれば、こんなものは悩む話ではない。

 

考えてみてくれ。

焼肉に白い飯がどれだけ合うことか。

肉にタレを絡めて網の上で焼き、甘く香ばしい独特の煙が嗅覚を刺激する。

ジュージューという肉の焼ける音が聴覚を刺激する。

良質の肉であれば、少々赤いところが残っていても良いだろう。

網から上げた肉を甘辛いタレに浸す。焼きたての肉が温度の低いタレに触れることでシューという軽快な音を立てる。

このまま食べても十分美味い。

しかし、ここで白飯の登場だ。

行儀の悪い話かもしれないが、真っ白の米の上にほんの少しだけ肉を乗せる。

ほんの少しでいい。白いキャンパスを赤茶色の模様で彩るのだ。

炊き立ての白い飯からは甘い湯気が立ち込め、焼肉のタレの香りと混ざり合う。

まずは肉をほおばる。一口でほおばるのだ。

噛めば噛むほど広がる肉の甘味、タレの香ばしさ、それだけでまずは天国を見るだろう。

ある程度肉を口の中で楽しみ、すかさず投入するのは、そう。白い飯だ。

米の優しい甘味が肉の存在を引き立たせる。

しばらく2人の甘美なデュエットを楽しんだ後は喉の奥に押し込み、とどめはタレで彩られた部分の米の投入だ。

米が!米なのに!肉のごとしうま味!!!

 

お気づきの通り、肉と米はまさに「脂肪と糖分」だ。

他にも「ラーメンとチャーハン」「パスタとピザ」など、食の武装勢力はそこかしこに存在している。我々は常に囲まれているのだ。

また「ケーキ」などという単体でとてつもない攻撃力を誇る武器も待ち構えている。

もう人間に勝ち目はない。いや、元々負け戦だったのだ。

道具を作り始めた先祖の時代から、人間はすでに負けていたのだ。

更に言うなれば、負けるために成長と発展を続けてきたのだ。

焼肉定食を人類で初めて開発した人は、相当のマゾヒストと捉えても大げさではない。

 

野菜も決して美味しくないわけではない。

農家の方が丹精込めて育て上げた野菜は、甘味すら感じて美味しいものだ。

しかし、あなたは生涯野菜を食べる際に何もつけず、野菜本来のままの味で食すだろうか。

多くの人は野菜単体ではなく、生であればドレッシングなどの調味料を用いるだろう。

他にも茹でたり焼いたり揚げたり、何かしらの調理を施しているはずだ。

そう、普段多くの人が口にしている野菜もまた、自らを蝕むために先人が作り出した兵器で武装されているのだ。

 

人間の食生活と切っても切り離せない「脂肪と糖」問題。

この疑問はこう解決したい。

「食べ物を美味くするには脂肪と糖が必要だから」だと。

(ただ、納得はしていない。脂肪と糖で出来ているものが美味しく且つ太らなければいいのに、と割と本気で思っている。)

 

 

もし人間が葉っぱしか食べない生き物だったら、きっとこんな悩みはなかったはずだ。

もしゃもしゃとその辺りに生えている葉っぱを食べ、特に美味しいとも不味いとも感じることなく、それでも健康に生きていけるなら最高じゃないか。

 

でもそれだと、食の楽しみということは知り得なかったわけだ。

食う寝るSEXの三大欲求があっての人生なのに、その内一つが消滅することになる。

元々人類に食に関しての欲求が無ければ心配は無いが、それでもやっぱり寂しい話だ。

やはり人類は「痩せたい」という悩みと引き換えに、人生を何倍にも楽しく生きる術を手に入れているのかもしれない。

それは先人達の工夫と成長、発展があってこその、かけがえのない知識の財産なのだろう。

 

 

【結論】

焼肉に白飯、ここにビールがあったらもう最高だよね。