電柱の足元に咲く小さな花の歴史を君はまだ知らない

私も知らない。 日々思うことや思い付き短編小説風コラム風な記事を不定期で投稿します。 基本的にすごくしょうもない内容です。 知的要素ゼロがお好きな方向けです。

『ちゃんとする』という単語に関する考察

「ちゃんとしなさい!」
慌ただしい空気が漂う通勤ラッシュの駅のホームで、アナウンスをかき消すほどの声が響いた。女性特有の甲高い金切り声だ。
声の方に目をやると、まだ幼稚園か小学生かほどの小さな坊やがぼーっと女性を見上げていた。

 

周囲のスーツを着たサラリーマン達の中には、怪訝な顔をして彼女らを見る者もいた。
これは恐らくの予想だが、彼がチョロチョロと動き回るなどして、母親と思われる女性に怒られたのだろう。

 

彼くらいの歳となると、多くの子は「何を言われて、どういう意味か」が理解出来、「自分はどうすべきか」を考えることが出来る。

もし理解出来ないのであれば、まだ自分が知らない単語が出てきた時であろう。

 

彼はきょとんとしていた。
(一体ママは何をそんなに怒っているのだろう。カモミールティーでも持ってくればよかったな。)なんて思っていたかもしれないし、あるいはその後実際に、彼が肩からぶら下げていた【二足歩行のパン】が描かれた水筒から、温かいカモミールティーを蓋に移し、母親に渡していたのかもしれない。

 

彼が何をしでかしたのかは知る由もないが、怒られているにも関わらず、きょとんとしていた理由は明確だ。
「指摘が不明確」だからだ。

 

我々も小さな頃、親に「ちゃんとしなさい」と怒られた経験があるだろう。
成人して社会に出てからも上司などから「ちゃんとしろ」などと叱責されたこともあるかもしれない。

 

「ちゃんと」とは一体何者か。

 

単語は少し変わるが、関西圏で主に使われていると言われる「シュッとした」という表現がある。
よく友人同士などで会話をしている時、関西ではない地域から来た友人からこう質問される。
「シュッとしたって、どういうこと?」

そんな時、多くの人はこう答えるのではないだろうか。
「シュッとしたってのは…何かこう...シュッ(手を上から下へ素早く下ろすジェスチャー)とした感じや」と。

 

これは決して方言ではない。
『ニュアンス』である。

 

関西は元より「バーっと行って」や「ブゥワー(って)話しとったら」など独特のニュアンスで表現することが多々あるが、このシュッとしたというのもその一環だろう。

 

ニュアンスというのは非常に面白いもので、伝わる人には伝わるし、伝わらない人には一切伝わらない。ある種の暗号のようなものだ。

 

ニュアンスで会話が成立すると、途端に会話が楽しくなる。

しかしニュアンスが伝わらない場合はいちいち説明じみた会話となり、それぞれで会話の硬度が変化する。

もちろん仕事などニュアンスで会話すると危険なシーンもある。
場面によって切替が出来るとベストだろう。

 

さて、問題の「ちゃんとする」についてだが、これも言わずもがな『ニュアンス』の一種だ。

「ちゃんと」の中には、誰がどんなシーンで使うかによって含まれる中身が異なる。

ある意味、「シュッとした」よりも多様性があると言える。

 

朝の母親が放った「ちゃんとして」には、子供に対して「周りに迷惑になるような行動を慎み、お母さんと手を繋いでおとなしく立っていなさい」という意味が含まれていると仮定する。

歳を重ねるに連れて、場所や人を選び行動を変化させるという技を身につけていくが、成長過程にある子供にとっては、全てが未知の世界だ。

人で溢れかえっていて大好きな電車がたくさんやってくる駅のホームなんて、遊園地と同義語と言っても過言ではないだろう。

テンションは上がり、興奮し、突然小躍りなんて始めても全くおかしくない状況だ。

そこで「ここは駅で、たくさんの人が電車に乗るために待っている。急いでいる人や具合の悪い人など色んな人がいる。だから遊園地のように暴れず騒がず、静かに待つ必要がある」ということを経験を交えて伝えていく必要がある。

(残念ながら、世の中には奇声を上げて騒ぐ若者や大声で突然叫ぶ中年などもいるが、ここではそういった例外は排除して考えよう。)

 

そんな中、突然「ちゃんとしろ」と言われたら、子供はどう反応すべきか?空気を読むなどして「ちゃんと」の中身を理解できるだろうか?

もしそのようなことを可能にする子供がいるとするならば、その子のIQは将来世界を変えるかもしれない。

 

決して母親の発言を咎めるつもりはない。

時間がない。電車に乗らなくてはいけない。子供の安全も考えなくちゃ。周りにも迷惑かけちゃいけない。そうやってパニックになり、思わず「ちゃんとして!!」と叫ぶことだってきっとあるだろう。

怒りたくなくても、つい怒鳴ってしまうことだってきっとある。温かいカモミールティーがいつも側にあるとは限らないのだ。

落ち着いた時にきちんと説明し、理解してもらえればそれで解決だ。(そうもなかなかいかないのがきっと子育てなのだろうが。)

 

「ちゃんとして」問題は、何も親子関係に限った話ではなく、前述のように社会に出てもまとわりつく。

大人になったらニュアンスの中身を全て読み解けるかというと、そういうものでもない。伝わらない言葉はどうやっても伝わらないのだ。

 

「ちゃんとしろ!!」という上司からの一喝。

営業で成績を上げろという意味なのか、単純に服装の乱れを指摘しているのか、独身に対して早く所帯を持てという意味なのか、事務室の整理整頓を指しているのか、自分に優しくしてほしいという表れなのか。

一対一で話をする中であれば、かろうじて「ちゃんと」の中身を拾えるかもしれない。

しかしどう頑張っても「具体的に何を求められているのか」は、ちゃんとの一言では100%は伝わらないのだ。

 

 

「ちゃんと」にまつわる最も恐ろしい話はここからだ。

親子でも学校でも仕事でも、「ちゃんとってどういうこと?」という一言は、暗黙の了解でNGワードだ。

何故なら、多くのケースが『怒っているなどのマイナス状態で発言される単語』だからだ。

 

自分がニュアンス単語を発言した時のことを想像してほしい。

「シュッとってどういうこと?」と聞かれると、きっと自分なりの答えを素直に伝えるだろう。

「ちゃんとってどういうこと?」と聞かれるとどうだろうか?

(え?バカにしてんの?)(ナメてんの?)(もっと言わないとわからないのか?)

こういう印象を持ったりしないだろうか。

 

どう考えてもおかしな質問ではないのだが、「ちゃんとってどういうこと?」「ちゃんとって何?」と聞き返されるそのニュアンスが、(もちろん言い方にもよるだろうが)何故か神経を逆なでする力を秘めているのだ。

 

純真無垢な子供が同じように質問したとして、怒り狂っているバーサーク状態の親は果たしてそのボールをきれいに受け止め、返すことが出来るだろうか。

おおかた「何でそんなこともわかんないの?!」という剛速球の魔球を放ち、子供を恐怖の底に叩きつける結果になるだろう。

 

少しずつ大人になるにつれて事態は深刻化する。

「ちゃんとってどういう意味ですかぁーちゃんと説明してくださいぃー」とワザと神経を逆なでる猛者も登場するし、もう少し成長すると「(意味わからないけどここで聞き返すと怒られそうだしとりあえず)ハイ、スミマセン」と意図が伝わらないまま会話を強制シャットダウンする先行逃げ切りタイプも登場する。

「ご指摘いただいた件、具体的にどうすべきかご教示願いますでしょうか」なんて聞き返せる人はおそらく希少価値が高いだろう。(自分で考えろ!と怒られる可能性も否定できないが。)

 

人とは感情で左右されやすい生き物だ。

その場の勢いでニュアンスで伝えてしまうこともきっと多いだろうし、そのまま受け流すことも多いだろう。

しかしその内容が重要であればあるほど、一度カモミールティーでも飲んで落ち着いてから、じっくり「ちゃんと」の中身を伝えられれば、きっと世界は平和になる。

私はそう願ってやまない。

 

 

【結論】

カモミールティーって優しい響きだよね(ちゃんと飲んだことはない)。

自転車旅記録~魔のトライアングルコース編~

それは今から七年前の四月終わり頃のことだった。

 

私はその年に初めてクロスバイクを購入し、浮かれきっていた。

紫色のジャイアントで、名を「ユリコフ」と言う。

※ユリコフについては、またその内書こう。

 

暇を見つけてはふらりと一人で出かけたり、時には友人と旅に出たり、若かったこともあって当時は頻繁にユリコフと行動を共にした。

そんな中、今でも忘れられない恐怖の日帰り旅を経験したのだ。

翌日の筋肉痛は過去最大級のもので、会社に行くのもままならない状態だった。

何故そんな状況に陥ったのか?

 

当時、他のブログに記録していたものがあるので、それを見ながら状況を追っていこう。

 

それは旅の前日に遡る。 

当時の仕事柄、なかなか二連休を取りにくい日々が続いたが、ようやく二連休が訪れ、私は浮かれきっていた。

それにも関わらず、初日にアラームというゴールテープをぶっちぎって果てしない睡眠欲を果たした私は、すっきり目覚めたものの「とんでもないことをした」と後悔の十字架を背負うこととなった。

そこでその後悔を払拭しようと、翌日の日曜日は張り切って起きたのだった。

 

しかし何だかんだダラダラとしてしまい、やっとのことで家を出たのがまさかの12時。

それでも私は当初の目標を変えることはなかった。

目標を変えてしまっては前日の自分への慰めが出来なくなってしまうからだ。

そう、今回の一人旅計画は【大阪出発→奈良公園伏見稲荷大社】 という壮大なスケールのものだったのだ。

 

元々は奈良のみ行く予定だったが、「そんなの普通すぎる」という悪い自分の囁きにより、京都を追加したのだ。(しかしこの選択が後に救いとなる。)

魔のトライアングルコースの完成だ。

 

まず、あまりの長距離なもので馴染みのチャリ屋にピットイン。

実はこの旅の前に神戸に行った際、どうもギアの動きが良くなくて軽いギアにするとチェーンが浮くようになった。

診断によるとどうも調整が必要らしく、少し時間がかかるとのこと。

これはマズい!!!
…という顔をしていると、気を遣ってくれた店員が手の空いている店員を呼んでくれて早急に対応してくれた。

 

以前より世話になっている馴染みの店員が当たり、声を掛けてくれた。

「今日はどちらに行かれるんですか?」

「ちょっと奈良まで。」

「…?え?今からですか?」

この時既に昼の十二時半。当然の反応だ。

「気を付けていってらっしゃい!」

と、爽やかな笑顔で見送ってくれた。 決して止めようとしないその姿に私は少し安心した。

「あ、まぁ行けるんだ」と。

 

しばらく1号線やら8号線やらをまっすぐ走っていると、20分くらいで気がつけば大東市だった。

さらにしばらく進むと、山らしきものが近付いてきた。

これは…まさか…

 

そう。
私はいわゆる地図の読めない女だ。
当時はまだスマホのマップではなく、わざわざPCから地図検索をして道を下調べしていた。

f:id:pepico-pepper:20170218235428j:plain魔のトライアングルコースの図

 

MapFanというサイトであれば、徒歩のルートも検索出来たので愛用していた。
とても見やすい地図だったが、地図上で高度というものを把握しないままルートを決めてしまったが故、全て平坦な道としか認識していなかったという奇跡物語を創り上げていた。

しかも、かの有名な「生駒山」ではなかろうか。

 

その昔、私がまだ小学生だった頃、 我が家の先祖が眠る墓が何故か奈良にあり、事あるごとに親父の運転で家族3人で行ったものだった。

アップダウンの激しい坂道で私はジェットコースター気分を味わい、当時としてはそれなりに楽しい思い出がある。

そのジェットコースターが

こ の 先 に
あ る と い う の か

確信と疑惑が私の中で蠢く間も、山は刻一刻と迫りつつある。

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茂みの中にひっそりと佇むラブホテル。

これは山に間違いない。疑惑は確信へと変貌した。

山道にさしかかる。敵は阪奈道路

 

山を走行する上で、休憩は危険な行為である。

足を止めると、先に進まなくなることがあるからだ。

「もういやだ!これ以上漕げない!おうちに帰りたい!」

そう思った瞬間にジ・エンドである。

そして何より、休憩が出来ない理由がもう一つ。

当時は社会人にも関わらず貧乏まっしぐらだったこともあり、金がなかった。

金がないにもほどがあるが、この日はたった200円しか所持していなかったのである。

途中、自販機で100円のペットボトルを購入したので、残り100円。

危険極まりない行動なので、これから自転車で山登りをする人は絶対に真似をしないでいただきたい。

 

こんな状況にも関わらず、あまりにも敵が大きすぎたため、私は合計二回の休憩を取ることになった。

途中で引き返さなかった根性に称賛を送りたい。 

 

生駒山上遊園地の看板が見えてからは快適な下り坂。

今までの苦労なんて何だったっけ?
とあっさり言えるほどの快適空間。

汗だくで登っていたのに、スピードが早すぎて寒いと思ってしまうほど。

鼻歌交じりで下っていた私は、この時のお気楽加減を一瞬で吹き飛ばす事態が訪れることを知る由もなかった。

 

「知る由」って言葉は有名な孔子の「子曰く」が発祥らしいね。今関係ないけど。

 

途中で「ならまち」と「奈良公園」に分かれる分岐点にさしかかった。

もちろん私は「奈良公園」を目指すワケだから、無理やり「奈良公園」側に移動した。

ところが、その先に待ち構えていたものとは。

橋。

そう。奈良公園行きの道は、高速道路のようなあの「橋」形態だった。

一度入り込めば否が応でも抜け出せない、チャリにとっては地獄への登竜門、「橋」。

中央が安全地帯的なアレで、周りにはポールが立てられていたので、慌ててそこに逃げ込んだ。

幸いにして「奈良公園」行きの地獄橋の道は渋滞していたため、割とすんなり移動できた。

バイクが怪訝な顔付きでこちらを伺っていた。完全に迷惑だっただろう。ごめん。

 

問題は軌道修正のために「ならまち」行きの道にどうやって合流するかだったが、それとなく無事クリア。

「やっと落ち着けるぞ。」

そんな己の考えは一瞬にして無駄であることを知らされる。

めくりめく急こう配ワールド。

永遠に続くアップダウン。

まるでそこは、ミスユニバースの姉ちゃんがゴールテープを持って待ってくれていて、満面の笑顔でテープを切った瞬間、正面に待ち構えている鬼の形相の鬼に喰われ、各消化器官でズタボロにされた後に鬼のケツから排出されたらまたミスユニバースが…が繰り返されるような場所だった。

延々と続く下りと上りをひたすら無心でクリアし続けると、ようやく町らしい風景に切り替わった。

私は勝ったのだ。山に。生駒山に勝ったのだ。

 

奈良の街並みは自然の風景が数多く見られ、先ほどまでの辛さは一瞬で癒された。

これだから旅はいい。

少し迷いながらもついに奈良公園に到着。

時間は15時。タイムにして約2時間半。走行距離は36.4km。
山超えと迷子がやはりネックとなった。

 

トイレ休憩と一服休憩を兼ねて、少々鹿と戯れ、30分もしない内に出発。

次なる目的地「伏見稲荷大社」を目指して。

さっそく迷子。

でも迷子になったおかげで、謎の牧場を発見。

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そこには「牧場のソフトクリーム」の看板。

疲労した体に「牧場のソフトクリーム」という文字は「猫にマタタビ」と等しい。

しかし、この時既に所持金100円。

血眼でコンビニ探した。

入った。

1000円下ろした。

食べた。

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最強に美味しかった。その場で転げ回りたかった。

でももうゆっくりしてなんかいられない。

なぜなら、この時点ですでに16時を回っていたからだ。

ダッシュで出発し、やがて京都市に突入。

…はいいが、何だか嫌な道に突入。

頼りないガードレールの先は「崖」。白線はけっこうギリギリ。

そんな道があまりにも果てしなく、気が狂いそうだった。

引き返すこともできない。

ビビりながら抜けて、あとはひたすら町中を
北へ…。

北へ…。

北へ…。

きt…。

着かない。

 

何だか太陽が夕日になりつつある気もしてきた。

今なら遅くない。少し下ったら大阪への道が開ける。

しかし、諦めるワケには行かなかった。

ここで根性曲げたら私は一生負け犬だ。

という自分ルールをこの場で発動。

iPhone3GSも教えてくれた。あと少しだよ って。

(電池の消耗が激しいので、iPhoneは極力封印していた。)

でも拡大縮小の加減で、「あと少し」が結構な距離だったことがその後判明した。

少し迷子になりながらも到着。

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伏見稲荷大社だ。

時間は18時。タイムにして約2時間。走行距離は35km。 

真っすぐで山ほどの坂ではないが、若干の坂道と車道の環境の悪さがネック。

正面のコンビニで一服した後、すぐに出発。ここは本当に写真撮っただけ。

焦る理由は風景にあった。

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鴨川沿いを走行している間にもどんどん日が沈んでいく。

これはマズい。

何故かというと、再びあの地獄の車道を走るはめになりそうだったからだ。

予感は的中した。

頼りないガードレールの先は「崖」。

さらにこの道に出た時、辺りは真っ暗。

頼りになるのは車のライトのみ。

白線はギリギリ。

視界最悪。

疲労感満載。

この生き地獄に結構本気で泣きそうになった。

でも涙を流して視界不良になったらそれこそ命取り。

早々にご先祖様のもとへ行くのはごめんだ。

漕ぐしかなかった。
生きて帰るしかなかった。

 

やがて枚方市の看板が見えた瞬間、私は少し叫んだ。「勝った!」と。

あの恐ろしい道を抜けてからは、もう怖いものなんてなかった。

だからすごいスピード出してたと思うが、相変わらず辺りは暗くて道もちゃんとは見えていない。

そのため、ものすごい段差にも気付かなかった。

私は飛んだ。自転車ごと宙を舞った。

こけずに着地したことは本当に奇跡だったが、恐ろしいことにサドルで股間を強打。

今まで「男の子ってうらやましいな」なんて思っていたが、生まれて初めて女性で良かったと感謝した。それでも痛かった。ガチで痛かった。ちょっとだけうずくまった。

そこからしばらくは道も気にしつつ走行。

大日のイオンに到着してトイレ休憩。

時間は20時。タイムにして約2時間。走行距離は33.4km。

視界の悪さと道の劣悪さが精神的・肉体的苦痛を伴わせる。

何気なくソファーに座ったけど、30分くらいして 「あ、ダメだ。寝る。」と思い急いで退館。

 

最後にひと踏ん張りし、生還ゴール。

時間は21時。タイムにして約30分。走行距離は9.3km。
最後は慣れた道なので精神的に超楽。

 

総走行時間は約7時間。総走行距離は約114km。

中京都を挟んだことで、生駒山を往復せずに済んだのは好事例。

 

この日学んだことは、

  • 車道付近を走る時はサングラス等で目を保護する(めっちゃ充血した)
  • ルートを決める時は高度も見ること
  • 家を早く出ること
  • お金はちゃんと持っていくこと

繰り返される腹痛の悲劇と対処法について

私はお腹がとても弱い。

 

このくだりから、これからクッソ汚い話になることは明確なので、食事中の方は自己責任でどうぞ。

 

 

 

 

 

 

改めて、私はお腹がとても弱い。

 

一応女性なので、どちらかというと普段は便秘気味なのだが、ふとした瞬間にお腹が男子になることがある。

牛乳飲んでは下し、ストレスを感じては下し、友人宅に行けば下す。

酷いもので、特定の友人と会うと何故かお腹を下すジンクスまで持ち合わせている。

腹下しの総合デパートのような胃腸だ。

 

お腹下しのエキスパートである私の経験を交えて、お腹が壊れた時の対処法を説明したい。

 

お腹を下しやすい人全てに当てはまるわけではないだろうが、私の場合はある程度パターンが決まっている。

  1. ちょっとお腹痛いかも?と感じるが、トイレに行っても何もない。
  2. 15分後。あれ?やっぱりちょっとおかしいかも?といってトイレに行くが何もない。
  3. 30分後。うん、これは壊した。と確信してトイレに行くが、少しだけ。
  4. 35分後。やばい、波が来た。と駆け込み、第一下し発生(約10分の立てこもり)
  5. 10分後。第二下し発生(約20分の立てこもり)
  6. 25分後。ようやく落ち着いたと思ったら第三下し発生(約15分の立てこもり)
  7. 30分後。ここで終了するか第四下し発生かはその日による。

トータルで約200分程度のスケールでお腹が壊れ続けるのだ。

これは何が最悪かって、壊す場所次第で周囲が地獄を見るところだ。

 

必ずしも家でこうなるわけではない。むしろ過去の統計からして外出先が圧倒的に多い。

飲食店で1が発生した時、それが商業施設の中であれば複数のトイレがあるため、被害の拡大は防げる。

しかし最も最悪なパターンは「単体の店且つトイレが1つしか無い」場合だ。

完全な立てこもりだ。テロだ。人質ではなくトイレ質だ。

友人や店員には心配され、何も知らない一般客からは扉トントンの嵐。

焦りは増す一方。出たい。早く出たい。しかし胃腸はそうはさせてくれない。

この時ばかりは完全な凶悪犯だ。ある意味胃腸の持ち主を人質に取っているのかもしれない。要求は何もなく、ただの愉快犯だ。

 

どこかのタイミングでうまくトイレから脱出できたら、次にすることは明確だ。

近くにパチンコ屋が無いか確認をするのだ。

 

何故パチンコ屋なのか。

もちろん場所にもよる。デパートなどが近くにあれば、デパートでもよい。

但し、ここで安直にデパートを選択するのは素人だ。

デパートの特に女子トイレは、長蛇の列が出来ている可能性が非常に高い。

男性には理解が出来ない現象かもしれないが、目にしたことはあるはずだ。

女子トイレにアトラクション並みの列が出来ていることを。

 

男性は用を足す際、個室に入るよりも小便器に行くことが多く、出入が非常にスムーズなのに対し、女性は必ず個室に入る。

服が複雑であれば上げ下ろしなどに時間を要す…といったところまでは想像できるだろう。

しかし、長時間並んだトイレでようやく手にした個室の権利だ。

座ると気持ちが落ち着くのだろうか、携帯を手にする者や、化粧を直す強者までが現れ始める。

個室から聞こえてくる物音や残り香などでそれらは周囲にバレるのだが、所詮は明日は会わない者同士。

こうして女性トイレという待ち時間20分レベルのアトラクションの完成だ。

 

もしお腹の緊急事態時にこの状態のトイレに遭遇した場合、経験者はこの時の心理状態を容易に想像できるだろう。

トイレに着いた安心感で限界ゲージが一気に上昇。しかし入れない現実を目の当たりにすることで絶望感を味わう。

ゲージは減ることを知らない。むしろ徐々に上昇を再開する。

澄んだ顔して携帯を触って待っている人間全員を長い木の棒で一気になぎ倒したい衝動を抑えることに必死になる。

ようやく回ってきた先頭。しかしなかなか誰も出てこない。

今なら全ての扉を斧で叩き割ることが許されるのではないかと考え始める。

限界ゲージのMAXまで秒読みだ。

ついに扉が開いた!もうなりふり構ってなんていられない!

走ると衝撃がダイレクトに腸を刺激するので可能な範囲の小走りで個室に入る!

恐ろしいスピードで準備をする!今ならズボン降ろし選手権で全国も夢ではない!

座った!間に合った!勝った!人としての尊厳を保てた!

 

…というギリギリの勝負は極力避けたい。

そのため、個人的には緊急性の高い状況でのデパート利用はオススメできない。

 

そこでパチンコ屋の登場だ。

 

何故パチンコ屋のトイレが穴場なのか?というと、単純に男女比の違いだ。

デパートに訪れる客のほとんどが女性なのに対し、パチンコ屋は女性客も増えたとはいえ、まだまだ男性客が多い。

そして個室は大抵2つ以上用意されている店舗が多い。

内1つを占領したところで、店側や客に迷惑をかける確率は低いのだ。

何故なら、店の特徴としてメイク直しをしたり携帯を触る余裕のある客なんてほぼいないからだ。

トイレは用を足すために来る場所。至極当然なことだが、パチンコ屋ではそれが愚直にまかり通っている数少ない貴重なスポットだ。

 

そして最近のパチンコ屋はトイレが綺麗なのもオススメしたいポイントだ。

女性客を集めるには、まずはトイレから。

ウォッシュレット機能はもちろんのこと、最近はアメニティまで充実しているところが多く、あぶらとり紙やハンドクリームが置かれている店もある。

古い地域密着型のパチンコ屋には期待はできないが、もし比較的明るくて新しそうなパチンコ屋を見かけたら、普段パチンコをしない女性でも是非トイレスポットとして注目することをオススメしたい。

 

そして時には2000円くらいでも投資してみよう。

もしかしたら2000円が10000円に化けることもあるかもしれない。

負けても緊急時トイレ使用料と思えば安いものだろう。

(ちなみに、緊急時にトイレをお借りして感謝の気持ちを込めて6000円投資したら、12万になって返ってきた経験あり。)

 

話は逸れたが、とにかくお腹が壊れたらまずは冷静に今いる場所、置かれている環境、周辺情報の確認をすることが大切だ。

もし誰かと一緒にいる時にこのような事態に陥った場合は、かならず同伴者に状況を報告できるよう携帯を持ち込もう。

お腹が本気で壊れ始めると、携帯を触る余裕は一切なくなる。

隙を見つけるのだ。連絡が取れそうな瞬間は必ず訪れる。

長期戦にもつれこむと、同伴者はどうしたらよいかわからなくなる。

例えば近くのパチンコ屋を探してもらう、店の人に状況を説明してもらう、紙を持ってきてもらうなど、適格な指示をしよう。

 

個室では自分との闘いだが、決して一人ではない。必ず味方はいる。

それだけは忘れないでほしい。

 

最後に注意したいのが、「いつ終戦するのか」という見極めだ。

ここを見誤ると取り返しのつかない事態に陥る可能性がある。

例えば、もうすべてが終わったと確信し、電車などの公共機関で帰ろうとする時を想像してほしい。

 

長きに渡る戦いに勝利したあなたは、万が一に備え早めに帰ることにした。

切符を買い、ホームで電車を待つ。お腹はきっと大丈夫だろう。

到着した電車の扉が開き、順序よく乗り込む。

目的地までは4駅。次の駅までは約5分だ。

 

…おかしい。

お腹に再度異変を感じ始めた。

その時にはもう手遅れだ。あなたの腸に潜む残党兵が、最後のチャンスを狙って息を潜めていたのだ。

 

ここで与えられる選択肢は3つ。

  • 最も近い駅で降りる
  • 我慢できるところまで我慢する
  • 意地でも目的地の駅まで降りない

あなたなら、どの選択肢を選ぶだろうか。

 

私は迷わず「最も近い駅で降りる」だ。

もちろん終電など、時間による選択肢の変化はあるだろう。

しかし、よく考えてほしい。

例え終電で途中で降りた時、タクシー代5,000円を支払うか、人前で人生最大の黒歴史を幕明けるか。

もちろん財布事情や距離、ネタとして披露できる度胸など人によって判断基準が異なるだろう。

私は迷わず、5,000円を払う。

 

少し前まで壊れに壊れた腹だ。いつ何が起きるかわかったものではない。

その痛みはただの痛みかもしれないし、退治したと思っていた親玉が実は影武者で、残党兵と思われていたそいつが実は真の親玉だという可能性も否定できない。

腹痛は様々な状況を想定しておく必要があるのだ。

 

腹痛の恐ろしさを伝えてきたが、そもそも腹痛にならなければよいだけの話だ。

もちろん、薬を常備するというのも一つの策だろう。

冷えが原因であれば、腹巻やカイロを用意するのも手だ。

しかし、どれだけ備えても突然やってくるのが腹痛。

本当に薬だけで抑えられるのか?カイロを当てたところで完璧に防げるのか?

そればかりは100%の保証は無い。

 

お腹に絶対的自信を持っていたとしても、この2つは頭に入れてほしい。

  • 他者への気配りと冷静さ
  • パチンコ屋

 

 

【結論】

マ〇ハンさん、いつも(色々)お世話になっています。

痩せたい願望と食事の因果関係に関する考察

痩せたい。

それは一般的に痩せていると思われる人でも抱く願望の一つだ。

一般的に痩せていると思われる人ですら痩せたいと願っているということは、一般的に痩せていないと思われる人のそれはより強力な願望となる。

私も一般的に痩せていないと思われる人の内の一人なので、痛いほどよくわかる。

「またまたぁ。そう思っているのは自分だけで、実際は太ってないんじゃないの?」

と思われるかもしれないが、身長と体重の比率で算出するBMI指数的にも、決して誇張表現ではないことを主張したい。数値に勝る事実は無いのだ。

 

さて、痩せるためには何が必要なのだろうか。

よく挙げられるのはやはり「運動」だ。筋力の衰えは脂肪に繋がってしまう。

運動無くしてダイエットは語れないだろう。

 

しかしそんなことはどうでもよい。

私が今ここで大声で主張したいことは運動のことではない。

人が生きる上で避けては通れないもの。そう、「食事」のことだ。

 

何故、美味いものは太るのか。

 

糖質制限だのカロリー制限だの、世の中にはダイエットの手法として食事に関する方法が散見される。

食事の節制をすることで、体重管理をするというのは確かに理に適っている。

しかし、私は主張したい。

 

そんなの楽しくない。

 

わかっている。わかっているのだ。

痩せたいと願うだけでは痩せないことを。

何かを手に入れるには、何かを犠牲にしなくてはいけないことを。

食べたきゃ動け、というのもわかっている。

ただ、私が言いたいことはそういう分かりきった話ではない。

 

何故人間は食べれる食材が多くて、そして太るのか

という点に着目したい。

 

自然界の動物は、普通に生きていたら太ることはない。

何故なら、私の独自の推測によると彼らは「一定の食物」しか口にしないからだ。

例えばライオン。草食動物を襲うことで運動をし、肉しか食べない。

例えばウサギ。草などの野菜しか食べない。

例えば魚。基本プランクトン。

そして人間。肉、魚、野菜、果物、米、小麦、砂糖、油、塩・・・

明らかに口にする食材が多すぎる。調理をするなどしてバリエーションが富んでいるのも特徴だ。

 

人間が進化の途中で道具を作りだし、火を扱い始めた段階で、既に食のバリエーションは広がっていたはずだ。

生肉を食らって腹を壊すこともなくなり、魚を生で食べる良い方法を編み出し、味気のない野菜を引き立てる調味料なんていう小技も生まれた。

これ故に、人間はとても贅沢な生き物と言われている。

 

犬も人の手で育てる際、ドッグフードなど自然界にはない食物を与え、散歩もせず家でだらだらする生活をさせてしまうと、贅沢を覚えた犬はどんどんと太っていく。

人間はこれを自ら望んで繰り返していく。

 

そして容姿を気にするのも人間独自の感情だ。

単純に痩せた方が行動しやすい、健康によいというだけであれば、世の多くの人は痩せたいなんて思う必要はないだろう。

美味しいものを食べたい。そして見た目もスッキリしてモテたい。

人間ならではの食に関する貪欲さと子孫繁栄という絶対的本能を混ぜた結果、「痩せたい」という独特の願望が蔓延ってしまったのだ。

 

話を少し戻すが、人間が美味しいと感じるもの。その多くが「体に悪いもの」だ。

カップラーメンとか最高にうまい。しかし最高に体に悪い。そういうことだ。

某CMでも謳われている通り、美味しいものは脂肪と糖で出来ているという事実。

これに強く疑問を抱いている。

 

単純に肉を食べることを思い出してほしい。

あなたは赤身のステーキ肉を、ただ焼いただけで食べれるか?

答えはノーのはずだ。

何故なら、普段美味しいと思ってむさぼっているのはただの肉ではない。

時には塩のみ、時には焼肉のたれ、時にはおろしポン酢。

そう、肉を食らうだけでは人間は「美味しさ」を感じない。

そこに何かしらの「うま味成分」が加わっているのだ。

 

もちろん、少量であれば太る原因にはならないだろう。

しかし美味しいものは美味しい。毎日食べたい。そう思うのが人間だろう。

「昨日は焼肉食べすぎちゃったから、今日はサラダだけにしよう。」

世の人間全てがそうやって食に対しての修行僧並みのストイックさをもってカロリーコントロールが出来るのであれば、こんなものは悩む話ではない。

 

考えてみてくれ。

焼肉に白い飯がどれだけ合うことか。

肉にタレを絡めて網の上で焼き、甘く香ばしい独特の煙が嗅覚を刺激する。

ジュージューという肉の焼ける音が聴覚を刺激する。

良質の肉であれば、少々赤いところが残っていても良いだろう。

網から上げた肉を甘辛いタレに浸す。焼きたての肉が温度の低いタレに触れることでシューという軽快な音を立てる。

このまま食べても十分美味い。

しかし、ここで白飯の登場だ。

行儀の悪い話かもしれないが、真っ白の米の上にほんの少しだけ肉を乗せる。

ほんの少しでいい。白いキャンパスを赤茶色の模様で彩るのだ。

炊き立ての白い飯からは甘い湯気が立ち込め、焼肉のタレの香りと混ざり合う。

まずは肉をほおばる。一口でほおばるのだ。

噛めば噛むほど広がる肉の甘味、タレの香ばしさ、それだけでまずは天国を見るだろう。

ある程度肉を口の中で楽しみ、すかさず投入するのは、そう。白い飯だ。

米の優しい甘味が肉の存在を引き立たせる。

しばらく2人の甘美なデュエットを楽しんだ後は喉の奥に押し込み、とどめはタレで彩られた部分の米の投入だ。

米が!米なのに!肉のごとしうま味!!!

 

お気づきの通り、肉と米はまさに「脂肪と糖分」だ。

他にも「ラーメンとチャーハン」「パスタとピザ」など、食の武装勢力はそこかしこに存在している。我々は常に囲まれているのだ。

また「ケーキ」などという単体でとてつもない攻撃力を誇る武器も待ち構えている。

もう人間に勝ち目はない。いや、元々負け戦だったのだ。

道具を作り始めた先祖の時代から、人間はすでに負けていたのだ。

更に言うなれば、負けるために成長と発展を続けてきたのだ。

焼肉定食を人類で初めて開発した人は、相当のマゾヒストと捉えても大げさではない。

 

野菜も決して美味しくないわけではない。

農家の方が丹精込めて育て上げた野菜は、甘味すら感じて美味しいものだ。

しかし、あなたは生涯野菜を食べる際に何もつけず、野菜本来のままの味で食すだろうか。

多くの人は野菜単体ではなく、生であればドレッシングなどの調味料を用いるだろう。

他にも茹でたり焼いたり揚げたり、何かしらの調理を施しているはずだ。

そう、普段多くの人が口にしている野菜もまた、自らを蝕むために先人が作り出した兵器で武装されているのだ。

 

人間の食生活と切っても切り離せない「脂肪と糖」問題。

この疑問はこう解決したい。

「食べ物を美味くするには脂肪と糖が必要だから」だと。

(ただ、納得はしていない。脂肪と糖で出来ているものが美味しく且つ太らなければいいのに、と割と本気で思っている。)

 

 

もし人間が葉っぱしか食べない生き物だったら、きっとこんな悩みはなかったはずだ。

もしゃもしゃとその辺りに生えている葉っぱを食べ、特に美味しいとも不味いとも感じることなく、それでも健康に生きていけるなら最高じゃないか。

 

でもそれだと、食の楽しみということは知り得なかったわけだ。

食う寝るSEXの三大欲求があっての人生なのに、その内一つが消滅することになる。

元々人類に食に関しての欲求が無ければ心配は無いが、それでもやっぱり寂しい話だ。

やはり人類は「痩せたい」という悩みと引き換えに、人生を何倍にも楽しく生きる術を手に入れているのかもしれない。

それは先人達の工夫と成長、発展があってこその、かけがえのない知識の財産なのだろう。

 

 

【結論】

焼肉に白飯、ここにビールがあったらもう最高だよね。

マイペースの定義

私はいわゆる「マイペース」な人間だ。

 

急ぐのは好きではなく、まったりのんびりと、周りに左右されずに行動をしたいと常々思っている。

小学校の頃の給食でも、こちらは苦手なものがあったり腹がいっぱいだというのに、制限時間内に残さず食べきれという強要がとても苦痛だった。

楽しい食事の時間くらい、のんびり好きなように楽しませて頂きたいものである。

 

ところで「マイペース」とは、よく「のんびりした人」に対して使われることが多く、どちらかというと中傷的表現な印象がある。

そもそも「マイペース」の「ペース」とは、どれほどのペースのことを指すのだろう。

 

【自分のペース=マイペース】

であれば、のんびりした人もその人のマイペースだし、当然せっかちな人もその人のマイペースとなる。

 

何故せっかちな人は「マイペース」だと小馬鹿にされないのか。

私の見解によると、せっかちな人はのんびりした人にペースを合わせることはせず、逆にのんびりした人がせっかちな人にペースを合わせざるを得ないという暗黙の了解が、この世に蔓延っているからではなかろうか。

 

自分以外の誰かと何らかの行動を起こす時、相手のペースを無視したスピード(早すぎ・遅すぎ)で動くと、当然相手に迷惑がかかる。

しかしより大きく迷惑をかけるのは、相手よりのんびりしたペースなのか、相手より早すぎるペースなのかなど、一体誰が計れるというのか。

相手のペースが早すぎるだけなのに、「お前はマイペースだな(遅い!)」と指摘されるのは、非常に遺憾で不愉快なものだ。

 

時間は誰にでも平等に与えられているので、急げば急ぐほど時間を有効活用できるのは、至極当然のことだ。

だからといって、何でも急かせばよいってものでもない。

 

食事はゆっくり食べてこそきちんと消化され、体への負担も少ない。

いわゆる早食いの人は体への負担が大きいだけでなく、一緒に食べている相手に「食べ終わりましたけどー」という暗黙のプレッシャーを与えることとなる。

まだ食事が半分も終わっていないと大変だ。

食べ終わった相手は当然することが無く、流暢な会話がスタートする。

食べている側は会話の相手をしながら食事を口に流し込み、口を空にし、言葉を発し…というローテーションを素早く行う作業が発生する。

「いいよいいよ。ゆっくり食べて」なんて絶対建前だ。

本当に目の前でゆっくり食べられたら、きっと(え?いつまで食ってんの)って絶対思うんだ。

 

例えば普通に歩いて十分のところを、競歩に近しいスピードで歩いて五分で着いたところで、結局は切れた息を整うのに五分要すのなら、トータルでは一緒ではないか。

仕事などは別として、目的(食事を食べ終える等)が一緒であれば、のんびりした人でもせっかちな人でも、タイミングこそ違えど行き着くところやモノは同じだ。

それなのに、素早く行動する人ばかり称賛され、ゆったりした人が小馬鹿にされるのには、やはり納得がいかない。

「〇〇くんはもう食べ終わって校庭で遊んでいるよ!」なんてお節介もいいところだ。

誰しも『食事 < 遊び』と思っているなんて思わないでいただきたい。

給食が時間内に食事を終わらせることの大切さをきちんと説く目的であれば、昼休みの1時間をまるまる費やすくらいは大目にみていただきたい。

 

せっかちな人はのんびりした人にペースを合わせるという発想があっても、何らおかしくないハズだ。

何故なら、のんびりした人にとっては早すぎるペースも、この上なく迷惑なものだからだ。

せっかちな人がのんびりな人に「遅ぇ!」と思うのと同じなんだ。

のんびりな人もせっかちな人に「早ぇ!」と思うんだ。

 

足の遅い亀はうさぎの走りについていくことはできなくとも、亀の歩みにうさぎが合わせることは物理的に可能なのだ。

無理に合わせろなんて言わない。君みたいに早く動けないんだから、寛容なお心を。その一心なのだ。

 

標準的なペースが存在するのであれば、恐らくこの問題は解決するだろう。

しかし残念なことに標準的ペースを算出するには、全国民の各同世代の男女別で、食事の早さや歩くスピード、机の上に教科書を広げる早さなど、様々な行動時間を計測して平均化させる必要がある。

そんな労力を費やすくらいなら、マンションの広告に書かれている色んな間取りに家具の位置を書き込み、レイアウトをのんびり妄想している方がよほど生産的である。

 

誰もが辛い思いをせず、且つマイペースなどと誰も中傷されない方法とは何か。

それは、のんびりした人にはせっかちな人に、せっかちな人はのんびりした人に、お互い少しずつ歩み寄ることである。

 

繰り返しになるが

【自分のペース=マイペース】

であるならば、自分のペースを相手に強要し合うのではなく、分かち合えばよい。

のんびりした人もマイペース、普通の人もマイペース、せっかちな人もマイペースだ。

 

「私はマイペースな人間だ」なんていう冒頭の説明すら滑稽だ。

「私は人間だ」と言っているような、至極当たり前なことになってしまう。

そうなると、もはや「マイペース」という言葉は不要だ。

中傷されることもなくなる。

世の中が平和になる。

なんてハッピーなんだろう!

 

ただ、それが最初から人類みな分かっていれば、相手のペースに乱されるなんて気苦労もなく「マイペース」なんて馬鹿げた単語も生まれなかっただろう。

人類はもとより、時間という固定的かつ流動的な概念の中で生活をしている以上、やはりペースは重要な問題なのかもしれない。

そう思うと、思考を巡らせてPCを立ち上げ、ひたすらに文字を打ち込んだこの時間というのは、長いようで短い人生の中でとても無駄な時間に思えてきた。

 

仕方ない。

夢のような4LDKの間取りが描かれた広告に、持ってもいないような家具を書き込んで妄想でもしよう。

 

そんな時間あるなら勉強でもしろって?

いや、私は「マイペース」ですから。

あだ名に関する考察

子供の頃にふとした拍子に付けられたあだ名が、大人になっても定着しているケースがある。


例えば「松本さん」なら「まっちゃん」、「山根さん」なら「やまちゃん」など、名前の一部をもじったあだ名であれば、定着率は非常に高い。
定着率は「呼びやすいかどうか」で変わってくると思っていいだろう。

 

呼びやすさとは何か。それは語感の良さと言い換えてもよいのではないだろうか。

 

「松本さん」に「まつほん」というあだ名を付けるとしよう。
まっちゃんとまつほんを比較した時、どちらが呼びやすいか。
同じクラスに松本さんが二人いた場合、「両方まっちゃんになるから、一人をまつほんさんにしよう」と誰かが言い出したところで、大方一ヵ月も持つまい。

 

名前をもじったあだ名は、語感の良さと同時に付けやすさも得られる。
身体的特徴や性別問わず、相手を傷つけることなく気軽に付けられて呼びやすい。
従って、名前もじりのあだ名は多く存在するのだろう。

 

一方で、名前に全く関係のないあだ名を付けられるケースもある。
かく言う私も、周囲には見知らぬ外人の名で呼ばれている。
きっかけは、カラコンを付けていたこと。ただそれだけだ。

 

他にも、物知りのため「ハカセ」と呼ばれる人や遅刻ばかりするので「シャチョー(重役出勤)」と呼ばれる人、最近だとラグビーをしているだけで「ゴロー」と呼ばれたりする人もいるだろう。

 

本名には全く関係ないはずなのに、何かのきっかけであだ名にされ、いつの間にか他のグループ、社会に出ても同じあだ名で呼ばれる人達。
これも共通点は「語感の良さ」にあると考える。

 

では逆に定着率の低いあだ名は何か。
答えは「語感の悪さ」だ。

 

小学生を思い浮かべてほしい。
仮に学校でウンコを漏らした子がいるとしよう。
その子のあだ名は「うんこ大王」に決定してしまった。
これ以上に不名誉なことはない。
教室では即席のうんこ大王の歌が響き渡る。クラスのマドンナにも笑顔でうんこ大王と呼ばれてしまった。辛い。学校に行きたくない。

 

でも安心してほしい。このあだ名が続くのは、小学生のしつこさからしても一ヶ月持つか持たないかだ。
理由は何か?
「呼びにくいから」だ。

 

再びその名が浮上するのは、せいぜい二十年後の同窓会で偶然覚えているやつがふと話題に出して、飲みの席でいじられる時くらいだ。
その時、隣で笑っている元マドンナは今の奥さん…なんて綺麗な話は無いだろうが。

 

ここで注意したいのが、うんこ大王を語感の良い呼び方に変形させられていたら、事の重大さが一変してしまう。
そう、「ウンダイ」などと変えられてしまうと、もう一生モノだ。

 

高校に入って「お前何て呼ばれてたの?」と聞かれ、偶然同じ小学校から上がってきた奴が同じクラスだったらもう最後だ。
理由は語られずとも、その小気味のいい響きに周囲は好んでウンダイと呼ぶだろう。


社会人になり、めでたく知り合いが一人も居ない環境に馴染めた時には、既に彼の中にはウンダイが定着してしまっているだろう。
永遠に解くことの出来ない呪いの名前の完成だ。

 

あだ名というものには、親から授かった大切な名前とは異なり、後天的にその人の性格や人生を左右する力がある。

 

小学生の皆様には、語感が良く、且つ人を傷つけることのない愛着のあるあだ名を是非考えて頂きたい。

 

 

【結論】

「まつほん」は一ヶ月後に「まつもっさん」になっている。

2017明けましておめでとう!!!!!!!!!!

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今更感な!!!!!!!!!!

 

いいんです。

気持ちなんです。

書き手の自己満なんです。

 

これで良い2017年が過ごせそうです。

ありがとう。

みなさま良いお年を。

 

もう普通に仕事とか始まってるし、正月気分なんてみんな数年前のことのように思ってると思うけど、まだ1ヵ月経ってないからな?

各々が新年早々抱負のようなものを立てたと思うけど、9割の人が10年前のことのように忘れてるだろうけど、まだ1ヵ月経ってないからな?

 

まだ新年明けて早々なのだよ。わかるかい?

 

私は今月いっぱいは正月気分で過ごさせていただきます。

脳内は正月休み中です。

 

いいんです。1月だから。

 

今年は1つ決めたことがあります。

 

「自己投資をケチらない」

 

どうです。意識高いでしょう。

 

昨年の集計結果を見て気付いたのです。

投資をケチると勝てないことに。

そう、昨年は過去集計をしてきた中で投資が最低額で、マイナス結果だったのです。

一方、プラス年の集計結果は投資額もすごいことに。

というわけで、今年はケチらないことをテーマに決めました。

 

何の話かって?

スロットです、スロット。

 

今年もベストオブクズイヤー目指します。